何をやるか?


ひとくちに音楽活動といっても様々だ。
大分類としてプロかアマか、というのがある。いうまでもなく職業として成立させている人がプロであり、そうでない人がアマだ。
また、プロにもいろいろあって、実際に「ショーのステージに立つ人」、制作専門の人、教える立場の人、またはスタジオ・ミュージシャンやサポートで生計を立てる演奏専門の人。もちろんいくつかを兼任していたり、それ以外のカタチもあるだろう。
スターとして持ち上げられるのは主に「ショーのステージに立つ人」で、ごくわずかな一握りの人たちだ。確率で言えば100万人に1人、といったところだろうか。しかも一時的にスター化しても継続できる人はこれまた一部で確率はさらに下がる。
無論、職業である以上、それは厳しい世界であり、嫌なことも腐るほどある。自分自身を騙し、裏切り、体制を選ばざるを得ないシーンに幾度も直面する。
だが、そういった厳しさやしがらみ、あつれきはプロだからこそであり、どんな職業にもつきものなのだ。

その点、アマチュアは楽だ。楽しいことを楽しいまま続けられる。もっとも、そんな楽しい活動にわざわざ面白くない状況を作るのが好きな人もいるわけだが、そういうのは、そもそも音楽自体と関係ないところに原因があるものだ。そういうトラブルについては、いずれ触れるかもしれないが、できれば封印しておきたい。

そもそも音楽は文化なのであり、それを職業化・商業化してきたのはある意味民主主義の発展と背中合わせであるという皮肉な結果、と言わざるを得ない。実際、この世に出回っている全てのプロの音楽活動の成果が、全部素晴らしいものであるとはけして言えない。音楽は時に政治的メッセージを発信したり、主張のツールとなったり、権利を奪い合うシーンを生んだりもする。

ではそれが間違っているか、というとそうも言えない。ポピュラーミュージックの歴史はとても浅く、蓄音機の発明からまだ100年経っていない。パソコンにいたっては一世帯に一台普及したのは今世紀になってからだ。そんな激動の時代に「音楽がどうあるべきか」という議論自体がほとんどナンセンスなのである。

だが普遍的な部分もある。「音を楽しむ」と書く以上、楽しいのが最低限の条件なのだ。

音楽はこれまた大分類すると、クラシックとポピュラー、民族音楽に分けられる。クラシックは芸術に根差し、ポピュラーは大衆に根差し、民族音楽は民族に根差す、と考えればわかりやすいだろう。とはいえ、これらが融合したものも多くある。

このブログでは主にポピュラーミュージックについて触れることが多いと思う。
短縮してポップスと表現することが多いが、これを細かく分けるとキリがないくらい多い。ジャズやロックを遡っていくと結局ゴスペルや讃美歌、鎮魂歌に行きつき、それはもともとある種の民族音楽であったことになるわけで、つまりジャンルの論争もあまり意味があるとは言えない。

時代は常に回っており、その時その時の大衆が何に影響され、何に動かされるかにもよるが、その世代が共鳴するものが主導権を握るのが世の常であり、これも音楽に限ったことではない。

たとえばオールディーズと称される曲や日本のフォークを「古典」と表現する人がいるが、たかだか30~40年しか経っていないものを古典というのは、あまりにも了見が狭く、木を見て森を見ず、と言わざるを得ない。

ようするに、何をやってもいい、ということだ。貧しさを訴えたレゲェや政治批判のパンクも、単にファッションとして始まったものや注目を集めたくて始まったものでも構わないのだ。もちろん、音楽性が高いに越したことはないし、技術も高いに越したことはない。それを高めたい人は切磋琢磨していけばいい。

愛や青春を高らかに歌うもよし、恨みつらみを叫んでもいい。支持されれば広がるしそうでなければ淘汰されていく。非情なようで実に合理的だ。つまらなくなったら方針転換してもいいし、進化させてもいい。極端な話、飽きたらやめればいい。スポーツもあるし釣りやバイク、パチンコだってある。

我々は民主主義の時代に生まれ、その功罪に翻弄されているとしても、限られた人生は「良かった」と思える最期を迎えたいものだ。

抽象的な話より、もっと身近な話を書きたかったのだけど、それは次回以降に持ち越したい。ではまた。

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