仲間を探そう!


音楽演奏の発信、受信のスタイルはいくつかある。
生演奏以外に再生音楽というものがある。現代で言えばCDやダウンロード音源、サンプリング(オクターバー等含む)、カラオケ等のことだ。
生演奏は言うまでもなく、100%演者の演奏によるサウンドをリアルタイムで聞き手に伝えるわけだが、カラオケに乗せて歌う場合やDJがレコード等のディスクを用いる場合、マイナスワンで演奏する場合は10~30%が「生」にあたると言えよう。また、オクターバーなどの使用なら80~90%といったところか。

僕は原則的に100%であるべきだと思っているが、そうも言っていられない現実がある。

歌は歌えても誰もが弾き語りできるわけではないし、メンバーを集められるわけではない。また誰かと組む場合でも力量の違いや好みの違いもある。都会ならまだしも、地方ではそう簡単に仲間を探せないのが現状だ。だからアマチュアでうまい人になると掛け持ちをする人が多いのは田舎ならではなのだ。

そのためにコミュニティが必要だと思うのだ。まちおんはそういう機能も持っている、というか持たせたいと思っている。出演はできなくても、いろいろなアーティストを見に来て、そこにいる人たちと知り合い、語り、輪を広げていくうちに仲間を探せるのだ。未成年は無理だが終了後の打ち上げも自由参加できる。

さて、カラオケの功罪は多々ある。言うまでもなく発祥は日本なのだが、諸外国ではその浸透率はまちまちだ。日本を含むアジア圏ではずいぶん浸透しているのだが、そのあまり、クリエイター側もそれに合わせて作る、というある種のデフレスパイラルがある。

カラオケで歌いやすい、つまりそれほどの音域や歌唱力がなくても歌える楽曲を作れば、カラオケで歌われる確率も上がり、アーティストの評価や売り上げも上がる、という循環だ。必然的に欧米に比べポピュラーミュージックのクオリティの平均は停滞してしまう。

ロックの本場といえばやはりイギリスやアメリカだろうが、両国ともカラオケは文化とまでは昇華できていない。特にアメリカ人にとって人前で歌うことは恥ずかしいことであり、踊ると対照的な認識だ。日本人はその逆で踊ることを恥ずかしがる。

もっとも、日本でもカラオケがスナックなどに導入される以前(1980前後)は、同じように「人前で歌うなどとんでもない」状況だったが、それから40年近くも経つと、50~70代の人もつられて楽しめるような時代になった。

言い換えれば、歌唱パートを除く演奏は「ソフト化」したと言えるだろう。

アメリカで日本ほどカラオケが浸透しない理由としては、やはりプロ歌手のレベルが高い、ということがある。日本は独自のアイドル文化があり、高い歌唱力よりキャラクターや話題性、ルックス等が付加価値として高く認識される傾向があるが、アメリカではヘタクソでも歌える歌がそれほどない、という状況もあるようだ。

さらにイギリスではカラオケに対する嫌悪感は相当なものらしく、音痴や酔っ払いの歌声は「騒音被害」という認識もあるくらい、日本とは違うとのことだ。

コンピュータの発達によって、デジタルツールが発達したことも大きい。ベースやドラムなどのリズム楽器は早い時期にサンプリングできるようになり、ストリングス(弦楽器)やブラス(金管楽器)もリアルに再現できる。最近では歪んだエレキギターやボーカロイドのような音声合成技術も進歩した。

しかしそれを練習や実験の場、レコーディングではなく、生演奏の場で多用することは、多くのミュージシャンがあえてやらなかったのだが、日本は少し違った。俗に「打ち込み」と言われる、あらかじめ作成した音源、を他の演奏や歌とともにステージで使用する行為を、「あり」と捉える人が増えるようになってきたわけである。

また、これも日本独自だと思うが、演歌の世界では早くからプロが地方現場でカラオケを多用してきた歴史がある。もっとも演歌においては、客にとって歌唱部分がもっとも大事なのであって、演奏者は絵面上必要ない、という暗黙の雰囲気があったのかもしれない。

だが、これは別な角度で見れば「演奏者はいらない」と言っていることにもなるわけで、演奏を職業にしている人から見れば「仕事を奪われた」という見方もなくはない。

とはいえこのご時世、職務上仕方がない、というプロもいるだろう。だがアマチュアの発表の場ではどうだろう?しかも、多くの現場で「ライブ」「LIVE」という単語を使うのに「生」ではない、のだ。

自分は歌しか歌えない、ひとつの楽器しかできない、という人も、とりあえずまちおんで仲間を探してみてはどうだろうか。

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