都城の音楽界隈の問題点


このブログを立ち上げてから、約半年。自由なテーマで書いてもらうのだがなかなかテーマが絞れないときのためにとりあえず「お題」を提示してはいるのだけど、今回はちょっと失敗した。
コロナ禍ですでに日常に異常をきたしているときには難しすぎたかな、と。

しかもウクライナ問題。正直この件についてはコロナ以上に暗くなってしまうのだが、とにかく掲げた以上書いてみたい。

別に都城に限ったことではないだろうし、音楽に限ったことでもないと思うのだけど、この都城市でも小さなコミュニティレベルにもいわゆる「分断」のようなものは昔からある。それにこれは問題点というよりもどうしようもないことに思える。

半世紀以上この町に住んでいて、物心ついたころにはバンド活動やったりしてきた。合併なんてこともあったけど、都城市は現在16.5万、圏域で言えば30万弱。

10万以下だとそれほどもなく割とチームワークとれている感があるけど、それを超えるとどうしても「派閥」というか、相容れないコミュニティというのは発生してしまう。

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ある人から見れば「まちおん」ですら分断先なのであるという。その人の理論で言えば、金をとらずストリートでライブのできる機会を設けてしまえば、ライブをビジネスにしている店にとって「商売あがったり」になるのだという。なるほど理屈ではわからなくもない。では「まちおん」がなくなれば、ライブをビジネスにしている場所が潤うのか、というとそれは考えにくい。

もちろん個人的な好き嫌いもあるだろう。あのグループのあの人が嫌い、とかやってる音楽のイメージで「ああいう連中とは嫌だ」とか。まぁ葉加瀬太郎とセリーヌディオンのような例はビジネスだしそれ相応の超越した人たちだからこそありうるけども、ローカルレベルでそういう融合などは考えにくい。

時代の流れも大いに関係はある。僕がライブハウスをやっていたころ1990年から2000年にかけてというのは、まさにバンドブームだった。それなりのキャパを持っていれば毎週のようにスケジュールは埋まっていた。

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いまはどこかの文化祭を覗いてみると、弾き語り一組に対してダンスグループ20組、というようにダンスブームに完全に飲み込まれてしまっているし、打ち込み技術が浸透しボカロが定着すると「生演奏」というめんどくさいことをする必要がなくなったりもする。

だからこそ生演奏の価値観が高まる、という見方も当然あるわけだが、少なくとも受け皿であるハコ(ホールやハウス等)との需給バランスが壊れているのは間違いない。

コロナ禍もあるが、人口20万前後の街で、多からず少なからずというライブハウス件数は何件か?みたいな議論などは起こらないし、起こったところでそれが反映されることはない。飲食店でも美容室でも同じだろう。

ある意味、民主主義の功罪ともいえるのかもしれない。自由に開業できるからチーズドッグが流行ればチーズドッグを取り扱う店が無限に増え、タピオカが流行ればタピオカ店がこれでもか、とでき始める。行政がバランスについてアドバイスをすることなどはない。

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民主主義は、競争によってクオリティを上げコストを市民レベルまで下げていくのを後押しするが、飽和したときにそれを維持することに関与はしない。コロナ禍にいたっては病院や弁護士ですら破綻する。

本来なら、それぞれのコミュニティの長が喧々諤々の議論をし、協会なりなんなりを構成するのが前進する足掛かりかもしれないが、たかが音楽のコミュニティでそういうことを提案する人などはいないだろう。さもすれば「そんなことより大事なことがいっぱいあるだろう」となりかねないのがコロナ禍であり戦時下だ。

正直、このご時世に音楽を語るブログを書くことも、みんながどこかで「違和感」を感じているのかもしれない、と内心思ったりもしていた。じゃあだからといって楽しいことすべてを封印するのか?テレビからお笑いやバラエティを排除するのか?友達と楽しい酒を酌み交わすのを自粛するのか?

おそらくコロナ犠牲者もウクライナの人もそれを望んではいない。

かなり長文になったし、何を言いたいのかもちぐはぐだけど、とにかく今はコロナとウクライナがおさまってくれることを祈りたい。