私の周囲のイチオシ詩人/狂咲 狂


詩人、といういささか難しいお題を出してしまった。

作詞というのは、音楽というより「文学」というカテゴライズだと思うが、俗にいうリリック(lyric)は抒情詩、ポエム(poem)は 韻脚で書かれた詩 、と分けられる。韻脚は必ずしもポピュラーミュージックということではないだろう。俳句や短歌のようにリズミカルであれば、という意味だと解釈しているが、これについては語彙力があれば時間をかけて仕上げていくことは可能だろう。

僕はそういう韻脚等の技術より、「何をうたうのか」という点が作品として出来上がった時の観点だと思っている。

僕が学生時代はほぼ8割がいわゆるラブソングだった。今は少し目減りして7割程度かと思うが、それでもやはり多い。

そしてその内容は純愛からストーカーもの、略奪愛まで幅広い。ただ歌っている内容はたいして変わらなく、表現や比喩を変え、悪く言えば手を変え品を変え、といった感もあり、「こんなラブソングは今までなかったな」というような歌はこの10数年は見ていない気がする。

Embed from Getty Images

変わったかな、と思うのは、例えば不倫などは「許されない事」だったものが、美談として肯定(肯定というよりは背徳感を楽しもう的な)されているものが散見されるようになった感もある。個人的にはそういうのは気持ち悪いし、半ば憤ることもしばしばある。

まぁ正直、ラブソングは定番的な名曲が多く(多すぎる)存在しているし、これから新しいものがそれほど必要かとは思わない。仮に自分が書くとすれば、それはラブソングとしてというより、社会で存在するうえで止むに止まれない愛の貫き方、といったことぐらいしか書けそうにない。

そんな中、昔から存在するのが社会派ソングだなのだが、まぁ売れない。だからプロはもちろん、このあたりの上を目指す人たちもそういう歌は書かない。

だが僕としては、そのアーティストが主張を歌に託している姿は大好きなのだ。売れることを前提にしたありがちなラブソングよりも、世に楔を打つ姿勢の方が好きなのだ。

《優しい世界》

変わってるねと僕に苦笑いするきみが
多数決にすがる理由が判らない
誰かに焦がれ模倣する事が正義なら
正しき普通の君は一体誰のコピーなんだい?

味の無くなったガムを吐くように
共感覚がより大きな数字に絡め取られる
誰もが満足げに頷きあって
「普通だよ」と慰めあう
それはそれは幸せそうな顔で・・・

認められたいと願う君が歯を食いしばる程に
君の周りは君の挫折を慰めようと心躍らせる
そんな優しい世界に君が居て
そんな優しい世界に僕が居る

味を失ったガムはやがて昔の風味を誇張する
目には映らぬドレスを纏い孤独と不幸で詩を綴る
誰もが満足げに頷いて「可愛そうだね」とキーを打つ
モニター越しに胸弾ませながら・・・
来るべき時代を間違えたねって・・・

それはそれは幸せそうな顔で・・・
それはそれは罪の無い顔で・・・

認められたいと願う君が歯を食いしばる程に
君の周りは君の挫折を慰めようと心躍らせる
誰もが満足げに頷いて「可愛そうだね」とキーを打つ
モニター越しに胸弾ませながら・・・
来るべき時代を間違えたねって・・・
そんな優しい世界に君が居て
そんな優しい世界に僕が居る

都城を中心に活動している「キジマタク」の「優しい世界」の歌詞である。愛する人を絶妙にディスりつつも、それに染まることが賢いのか、はたまた愚かなのか、そのジレンマの中でもがき苦しむ青春が描かれていると、僕は解釈している。

一部、音楽は主張の場ではない、という人もいる。ではウレセンを狙ったラブソングの場なのか、というとそれもどうかと思う。昔からワビサビという表現がよくされるが、人がこの軋轢・しがらみという魑魅魍魎の世界で生き抜いていく中で起きうる高揚感や自虐、そしてそれをどう解釈しどう咀嚼して、またそれが成長とともに(あるいは劣化の中で)どう変化していくのか。それが綴られていくもののような気がしている。

その究極が坂本九の「上を向いて歩こう」のような曲に昇華していくとしたら、それこそが人生の縮図なのだろう、とも思うのだ。