好きではない(むしろ嫌いだ)が認めざるを得ないミュージシャン/吉井千周


今回のお題は「好きではない(むしろ嫌いだ)が認めざるを得ないミュージシャン」ということなのだが、アマチュアの僕から見れば、ミュージシャンはみな「認められて」発表しているわけなので、僕にそんな文章は荷がちょっと重い。たぶん、音楽を真剣にされている人の間にはいろんなしがらみがあり、「許せない」こともミュージシャンの間ではたくさんあるんだろう。でもまぁ、そこまで強く言えないので、一歩引いた表現で。

「苦手(むしろ好きだ)が公言しにくいミュージシャンと」して、「さだまさし」の名前を挙げておきたい。 「実はさだまさしが苦手だ」 さだまさしに接するとき、我々にはもはや彼を「嫌う」という選択肢は与えられない。

国内の歌手でも例えば矢沢永吉や長渕剛というと、その音楽の哲学性が盛んに語られるが、さだまさしの哲学性を力いっぱい語ると言うことはないような気がする(いや実は『防人の歌』とかイデオロギーまるだしの曲もあるのだが)。バンドのコンサートのように、コンサートではオリジナルタオルを曲に合わせて振り回すようなことはないし、縁側の先に「となりのギターが得意な知り合い」が、ちょっとやってきてギターを弾いて、お茶を飲んでかえっていくような感じで、ほどよく力が抜けている。同じようにほどよく力が抜けている笑福亭鶴瓶がホストを務めるNHKの『家族に一杯』のテーマ曲に使用されるわけだと思う。

ところが、実際にギターをぱらぱら弾いてみると『関白宣言』『北の国から』『案山子』『縁切り寺』までさだまさしのギターテクニックはすごく、なんであんな難しいことを簡単にやってのけられるのだろうと驚く。コード進行のオーソドックスさや、開放弦と声のタイミング、そしてフレット間の移動や小指の使い方に声の合わせ方といい、フォークミュージシャンにとってのバイエルみたいなもんじゃないかと思う。

実際、1970年代生まれまでは、フォークからロックギターまでギターを学ぶときに「さだまさしをまったく経験しないギター弾き」はいないのではないか。 そして、さだまさしの曲にはクラシックの知識が凝縮されてもおり、ブラームスの「大学祝典序曲」を『恋愛症候群』に、スメタナの「モルダウ」を『男は大きな河になれ』に取り込んだりと発想がまた凄い。2015年に菅田将暉主演のさだまさしが若い頃のドラマ『ちゃんぽん食べたか』がNHKで放映されていたがクラシックの素養に溢れている理由がよくわかる。 なにより恐ろしいことに、ギターや歌も当然だがトークが上手い。

僕は『さだまさしのセイ!ヤング』(1981-1994文化放送)を知る最後の世代だと思うのだが、そりゃぁすごかった。この番組は放送部の学生に大人気で、この放送の「ヤングスタッフ」になりたかったのを思い出す。今でも『今夜も生でさだまさし』がNHKで流れているのを見ると、深夜にイヤホンでラジオを聴いていた時代を思い出す。

そんなわけで、僕のような音楽知識をわずかにかじったにすぎず、トーク力のない人間には、さだまさしの前にひれ伏し、拝む以外の選択肢はない。仏陀の手のひらを飛び回る孫悟空のように、さだまさしの手のひらで転がされるのがオチだ。 そんなわけで、「絶対に勝てない苦手なミュージシャン」として、さだまさしを一生拝んで生きていこうと思う。